ノート:仙台真田家

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仙台真田氏[編集]

記述されている「真田氏の始祖 守信が幸村の次男」と言うのは 出典は 何なのでしょうか。 仙台人名大辞書の真田の項は 間違いが記されています。この事は当辞書の後継会である仙臺郷土研究会の会長から「真田の項は 誤謬」との回答を得ています。よって、それを参考にして作られた本には間違いが載っています。 私は 出典として 相応しいのは 宮城県姓氏家系大辞典のような家系の専門家が著した本等だと思います。 尚、蔵王町の後援社であったNHK仙台局 及び 河北新報も、仙台真田家は 幸村の子孫でないとして ページを削除しました。 結論として、仙台真田氏は「幸村の叔父さんの子孫」と するのが正しいものと思いますが 皆さんはどう思いますか。--深谷藤原三能会話2024年4月27日 (土) 09:03 (UTC)[返信]

情報 真田守信を信繁の次男・大八とする説を紹介している文献として、以下のものを確認しました。
  • 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。 - 小林計一郎 編『[決定版]真田幸村と真田一族のすべて』株式会社KADOKAWA、2015年7月21日、274-275頁。ISBN 978-4-04-601142-8 
  • なお、伊達氏や片倉氏に匿われた信繁の子女は、阿梅だけでなく、・・・大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという(小西幸雄①②)。 - 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』株式会社KADOKAWA、2015年10月25日、369-370頁。ISBN 978-4-04-703563-8 
    • (小西幸雄①②)とは小西幸雄①『仙台真田代々記』宝文堂、1996年、小西幸雄②『真田幸村と伊達家』国宝大崎八幡宮、仙台・江戸学叢書65、2015年を指す。
  • なお、信繁の妻も九度山に同行しており、ここで長男大助(幸昌)、次男大八(守信)、女子三人が生まれた。 - 笹本正治『真田氏三代―真田は日本一の兵―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年5月10日、221頁。ISBN 978-4-623-05444-2 
  • 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。 - 丸島和洋『真田四代と信繁』株式会社平凡社〈平凡社新書〉、2015年11月13日、258-259頁。ISBN 978-4-582-85793-1 
--こやまひろ会話2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
コメント有難うございます。
確かに それらの本には そう記されておりますが それらの本は 面白おかしく書かれた講談本や仙台人名大辞書を参考にして書かれた本を参考にしたもので、守信が生きていた江戸時代当初の記録ではありません。正しいのは 守信の子辰信が記した書置き、及び伊達世臣家譜だと思います。
尚、丸島さんの真田丸以前の本と 最近の研究結果では認識が変わっております。
真田家の子孫を称する人は「死亡の噂を流したので お寺が死亡」と記したのだと主張しているが
真田丸の時代考証者である丸島さんは「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、
戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です。
昌幸及び幸村は 兄 信幸の嘆願で死を免れた事からすれば 時が過ぎれば 幸村も許される
可能性もあった。この頃、大八を死んだことにする必要も無い」と 思いを変えております。
要するに、真実は、大八は 亡くなっており、守信とは 別人で、守信は 伊達世臣家譜にあるように幸村ではなく「政信の子」と言う事です。
また、平山優さんからは まだ返事が来ていませんが、丸島さんと友人のような付き合いをしている平山さんですので 認識は同じだと思います。
尚、ウイキペディアには3原則があるので、この場で その本が正しいかどうかを話し合いませんが、守信が幸村の子でない状況証拠を記します。
守信が幸村の子なら 嫁に行った阿梅が竹林院の位牌を引き取るわけもなく、立派な伊達藩士になった守信が引き取るはずです。幸村の息子でないので 阿梅は当信寺に頼んだ訳です。
また、守信と一緒に暮らしていた辰信が記した家の書置きには 守信の父を内記(政信のこと)と記しました。そして、伊達世臣家譜を記すに当たって 藩主の命を受けた儒学者 田辺 希文は 真田 信成(3代目)を呼び出して 話を聞いて「政信の子 沖允守信」と記したものと思われます。
即ち、当時を生きた人が書いた書物が事実だとは 思いませんか。
この5項目をご覧になって 貴方の感想をいただければ幸いです。--深谷藤原三能会話2024年5月13日 (月) 11:20 (UTC)[返信]
ひとまず、以下の2点について書誌情報をご提供ください。お示しいただいた情報源のうち、『伊達世臣家譜』以外のものについて特定が不足しており、確認しようにも確認するすべがない状態です。
公刊物であれば少なくとも書名・出版年・発行者の提示、可能であればページ番号もご提供ください。
非公刊物の場合は所蔵館をご教示ください。
  1. 「守信の子辰信が記した書置き」の内容に関する資料
  2. 丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料
なにとぞよろしくお願い申し上げます。-- こやまひろ会話2024年5月15日 (水) 16:51 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
1.辰信の家の書置きは 蔵王町が作った数万部のパンフレットの画像です。
2.丸島さんの記録は メールでもらったか、本から引用したか 今は 定かではありません。
調べるのに時間を要します。
それよりも
歴史家が記した本よりも家系の専門家が記した辞典の方が正確だとは思いませんか。
1.宮城県姓氏家系大辞典、1994年 角川書店 p.694
2.大八が夭折した事は 幕末に記された「真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」の53ページ上段に記されていることです。
この2点で充分と思いますが 如何なものでしょうか。--深谷藤原三能会話2024年5月16日 (木) 06:00 (UTC)[返信]
まず、丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料ですが、現状では検証可能性がないため、申し訳ありませんが、それにもとづいた記事の執筆はこのWikipediaではルール上できません。
続きまして、ここまでに資料としてあげられたものを時系列順に整理したものが以下となります。
年代 資料名 著者 記述内容
1678年(延宝6年) 真田家代々書上 真田辰信 曾祖父 真田隠岐守(信尹
1792年(寛政4年)ごろ 伊達世臣家譜 田辺希文・希元・希績 政信の子 沖允守信
1843年(天保14年) 真田家御事蹟稿 河原綱徳 大八 於京都早世
1994年(平成6年) 宮城県姓氏家系大辞典 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会(竹内理三ほか) 政信の子 守信は 父の死後、白石の片倉家に身を寄せた
2009年(平成21年) 真田氏三代―真田は日本一の兵― 笹本正治 次男大八(守信)
2015年(平成27年) [決定版]真田幸村と真田一族のすべて 小林計一郎 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。
2015年(平成27年) 真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 平山優 大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという
2015年(平成27年) 真田四代と信繁 丸島和洋 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。
これらの資料について、以下の点を指摘したいと思います。
  • 2000年以降の資料4件では、いずれにおいても大八=守信説を紹介している。
  • 大八=守信説(新説)に対する批判を行った上で守信=政信子説(旧説)を採用した専門家が今のところ確認できない。
  • 2015年の資料3件では、文末を「という」とすることで大八=守信説による断言を避けている。
  • 『真田四代と信繁』は両論併記という形を取り断言を避ける。
以上にもとづく私の見解は以下の通りです。
  • 大八=守信説(新説)が複数の歴史学者によって紹介された後、専門家による否定がなされていない現在の状況では、この説の記述を直ちに削除することはできない。
  • 『真田四代と信繁』が両論併記としている以上、守信=政信子説(旧説)は新説によって覆されたとは言いがたく、この説もWikipedia記事中に記載すべきである。
--こやまひろ会話2024年5月16日 (木) 17:19 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
なるほど 貴方のコメントで ウイキペディアと言うものが だいぶ良くわかりました。
理路整然とした記述、たいしたものだと感心しています。
また、貴方の見解も大変参考になりました。
有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年5月17日 (金) 09:36 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
貴方のコメントに感心して忘れていましたが 大八死亡の記録は 江戸時代初期の古文書にあるのです。
私は 大八死亡は 100%と確信していましたが 今回 貴方のコメントでは 50%の半々との感触のようです。
また、2000年以降の資料を重要視されているが、大八・守信が生きた時代に記された文書こそが
事実だと思います。
近いうちに丸島さん等のコメントが出れば 貴方の考えも変わるものと思います。
まずは、
大八は「大阪落城後 殺されたのではない」と記されている、
日本の武将64 小林計一郎著 1966年 人物往来社  p.91
https://www.myouji.org/sanada-kobayashi-jinbutsu.htm
1598年~1680年の史実を記した玉露叢に「大八 於 京都 早世」と
記されているとしている『左衛門佐君伝記稿』なのです。
とりあえず以上です。--深谷藤原三能会話2024年5月18日 (土) 00:04 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷です。
まずは 笹本さんの回答です。
笹本です。
「真田守信として 仙台真田氏へと繋がっていったような記述がありました」とのことですが、私が真田氏の関係で書いたのは『真田氏三代』だと思いますが、どこに記述したのか見る限りではわかりません。
私は個人の系譜的なことには興味がなく、書いたとすれば他の一般的な記述を参照したものと思います。
守信と大八の関係については研究しておりませんのでわかりません」と。
追って あとの二人から回答くれば ここに記します。
終わり--深谷藤原三能会話2024年5月19日 (日) 02:56 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
5/27日。歴史学者 平山先生から連絡が入りました((株)ポニーキャニオンの経営企画部の責任者を通して)。
「大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという」について。
平山さん曰く
「判断に質する文献が現状なく、お答えすることが叶いません」と。←回答をそのままコピー。
要するに深谷藤原が思うに、判断に資する文献がないのに2015年の本には 「大八=信繁の次男」と、記したと言う事です。
しかし、今回は 伊達世臣家譜など 大八・守信が生きた時代に記された文書と、家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典(1994年 角川書店発行)等の文書を付けて 判断を仰いだにも関わらず以上の短い回答でした。
これは まさに驚きの回答でした。
尚、丸島先生の思い「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です」と言う文章は 今は 削除されているホームページに記されていた事と判明しました。
とりあえず、大八と守信の関係のコメントは以上です。
ところで、こやまひろ様、質問です。
現在の仙台真田家の編集に関して、脚注のリンク先が消えており 見っともない状況になっています。そこで、
編集するに当たって 出典を脚注より上にすることは 違反でしょうか。
出典こそ 重要と思っているので質問します、以上、お忙しいところスミマセン。--深谷藤原三能会話2024年5月28日 (火) 00:38 (UTC)[返信]